横浜市金沢区町屋町4-20
元和元年(1615年)の創建伝承から現在の祭礼まで。
横浜市金沢区町屋町4-20
須佐之雄命(すさのおのみこと)
村社 → 神饌幣帛料供進神社=例祭の神饌幣帛料を公費から供進される社として県が指定
※1945年に制度廃止
毎年7月6日
7月中旬(例年、海の日を含む3連休)
毎年9月13日(湯立神楽)
富岡八幡宮が兼務(無人の神社)
現在、神社の日常的な管理と祭礼等の計画実行等は、町屋神社保存会を中心に行われている。
町屋神社保存会は昭和45年に町屋町内の有志により結成された、町内6団体(消防団、子ども会、文化部、ちとせ会、体育部、保存会)のうちの一つである。会員数は約100名。
町屋神社を原点に宮神輿・万燈神輿・子供神輿・屋台・囃子・木遣・纏などを後世に伝承することを目的として活動としている。
創建伝承から震災・再建を経て、現在の行政区分に至るまでの歩み。
大坂夏の陣で大坂城が落城後、豊臣方の家臣がこの地に移り住み、牛頭天王を奉斎したと伝わる。(口碑による)
牛頭天王社として、瀬戸神社(瀬戸明神)の下社家が出向いて祭祀を執行。祭礼は6月6日〜13日。末社に稲荷社二社。
社殿を改築。この時以降の棟札が現存し、それ以前の記録は不明。なお、この社殿自体は現存せず、現在の社殿は関東大震災後の再建(年表③参照)。
町屋村と洲崎村が協議し、共有していた天王社を二社に分けて祀るようになる。
神仏分離令により社号を「牛頭天王社」から「町屋神社」に改称。祭神を須佐之雄命に整理し、氏子区域を町屋町に限定。
近代社格制度のもと、村社としての格式が公式に認められる。
公的に幣帛料等が供進される神社として指定される。
金沢区一帯も甚大な被害。神奈川県内の死者・行方不明者は約3万2千人。社殿も被災したとみられる。
境内の由緒書きに「現在の社殿は関東大震災後に再建」と明記。具体的な年月は未確認。
町界町名地番整理により、磯子区町屋町として新設。それ以前は久良岐郡町屋村(江戸期)、明治22年から金沢村大字町屋、大正15年から金沢町大字町屋、昭和11年の横浜市編入で金沢町屋町。
行政区再編で磯子区から金沢区が新設され、町屋町も金沢区へ。現在の所在地表記となる。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の御子で、天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つくよみのみこと)と並ぶ「三貴子(さんきし)」の一柱。
天照大神との誓約(うけひ)を経て高天原(たかまがはら=神々が住む天上の世界。実在の土地には比定されない)に留まるが、田の畔(あぜ)を壊すなどの乱暴により追放される。
出雲・肥河(ひのかわ=現在の斐伊川。島根県東部)の上流で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、櫛名田比売(くしなだひめ)を救う。尾から出た剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)と伝わる。
須賀(すが=現在の島根県雲南市大東町須賀。須我神社が鎮座)の地に宮を建て「八雲立つ出雲八重垣」の歌を詠む。大国主神(おおくにぬしのかみ)の祖神とされ、出雲信仰の中核をなす。
疫病除けの神・牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、祇園(ぎおん)信仰が広まる。町屋神社も旧「牛頭天王社」で、明治の神仏分離により祭神を須佐之雄命に整理。
厄除け・疫病除け・五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神、また和歌の神として信仰。代表例は京都の八坂(やさか)神社や埼玉の氷川(ひかわ)神社など。
出典となる文献ごとに、用いられる漢字表記は異なる。
「須佐之男」は音仮名(ス・サ)+助詞「之」+訓字「男」の音訓混用型。「素戔嗚」は素・戔・嗚と全て字音を当てた純音仮名で、漢文体を採る書紀の性格を反映する。
「神(カム)」「建(タケ)」「速(ハヤ)」は勇猛・敏速を示す美称で神名本体ではない。近世以降は「戔」と「盞」の混同、「男」→「雄」の書き換えが進み、神社表記として定着した。
「スサ」の語義は荒ぶ(すさぶ)説、出雲国須佐郷の地名説、たたら製鉄に結びつける説など。どの表記を選ぶかが解釈の表明にもなる。本ページは各社の公式表記に従う。
祇園精舎の守護神とされる疫神。インド・中国・朝鮮では存在が確認されず日本独自の尊格とされ、起源は祇園精舎説・朝鮮牛頭山説など諸説あり定説はない。
『釈日本紀』所引の逸文では「武塔神」「速須佐雄」と記される。宿を断った富裕な弟・巨旦将来は滅び、宿を貸した貧しい兄・蘇民将来は疫病から守られる。茅の輪くぐりや「蘇民将来子孫」の護符の由来。
逸文の武塔神が速須佐雄と重ねられたことなどから、平安後期以降「牛頭天王=素戔嗚尊」とする習合説が定着し、祇園社では両者を同一の祭神として祀った。
京都の祇園社(感神院)が信仰の中心。疫神を祀って疫病退散を祈る祭礼が祇園祭へ発展し、各地に天王社・祇園社が広まった。
明治元年(1868年)の神仏分離により仏教的称号の牛頭天王は退けられ、全国の天王社・祇園社は素戔嗚尊を祭神とする社へ改称(八坂・素盞嗚・須賀・氷川など)。
旧称は「牛頭天王社」。神仏分離により祭神を須佐之雄命に整理し社名も改称。夏季例大祭(7月6日)に旧称の名残があり、洲崎神社境内の天王社が御旅所とされる。
夏季例大祭の祭祀を執り行う。また、神輿に御霊入れを行う。
例年海の日を含む3連休に斎行。金沢地区で神輿巡行を伴う天王祭は町屋神社が最初と伝えられる。旧称「牛頭天王社」に由来する夏の祭礼。
湯立神楽を伴う祭祀を執り行う。
明治2年(1869年)に京都の神輿職人が伝心寺境内で製作した。従って神輿の全体的な雰囲気は江戸神輿と若干異なり、京風の趣きとなっている。なかでも運慶作と伝わる鳳凰と、4つの燕は独特な作りでなかなかみることができない珍しく貴重なものである。台輪幅は三尺八分で非常に重く立派な大神輿。
町屋睦会が取り仕切る町屋神社天王祭の宵宮で毎年担がれ町内を渡御している。昭和51年に沖津工務店の大工によって製作された。金沢地域でも古いものである。この神輿の胴の武者絵は、青森の「ねぶた祭り」の絵師が描いた蝋引きのものである。令和8年(2026年)、稟木4本を長さ6.8メートルのものに新調し、既存の稟木をとんぼ(横棒)に流用した。
『新編武蔵風土記稿』(文政11年/1828年完成)に「瀬戸明神の下社家来て祭れり」と記載。瀬戸神社の社家が町屋まで出向き祭祀を執行していた。※社家=神社の祭祀を世襲で受け継ぐ家柄。
主祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ。山を司る神で大山津見神とも記す)だが、配神として須佐之男命(天王様)も祀る。牛頭天王信仰を内包する社であった。
室町時代には鎌倉公方が参拝する慣例があるなど、中世から金沢地区の中心的な神社。周辺の天王社祭祀を統括しうる立場にあった。
神輿巡行を伴う天王祭は、金沢地区では町屋神社が最初に行ったと伝えられ、瀬戸神社の関与のもとで始まった祭礼が地域に広がった可能性を示す。
建久2年(1191年)源頼朝が鎌倉の鬼門封じとして摂津西宮神社の蛭子尊を勧請したのが起源と伝わる。安貞元年(1227年)の託宣により社号を八幡宮に改め、応長元年(1311年)の大津波で富岡を守った「波除八幡」とも称される旧村社。
町屋神社は常駐の神職を置かない神社で、富岡八幡宮が兼務。同宮は柴熊野神社など区内の複数社を兼務しており、町屋神社の夏季例大祭(7月6日)・秋季例大祭(9月13日)もこの体制のもとで斎行されている。
湯立神楽は湯花神楽・鎌倉神楽とも呼ばれ、鶴岡八幡宮の「職掌」が奉納した神楽が母体。『新編相模国風土記稿』の鶴岡八幡宮職員表にある職掌八家に佐野家の名が記され、富岡八幡宮の社掌を兼帯したと伝わる。同宮では9月の秋季大祭と2月・11月の初卯の日(卯陪従)に行われ、町屋神社の秋祭の湯立神楽も同じ系譜に位置づく。
富岡八幡宮の例大祭では、800年以上続く「祇園舟」(横浜市無形民俗文化財)が斎行され、茅の舟に罪穢を託して沖へ流す夏越の祓が行われる。牛頭天王(祇園神)を祀った町屋神社の天王祭=夏祭と、疫病除け・夏の祓えという性格を共有する。
長浜の鎮守・大六天社に由来し、明治維新の神仏分離で洲崎神社と改称。祭神に建速須佐之男命を含み、境内社の天王社が町屋神社の御旅所とされる。文化6年(1809年)の町屋・洲崎の分祀(年表①)と対応する関係。
通称「寺前八幡神社」。江戸期までは別当寺・八幡報恩寺が北側にあったが廃寺。金沢文庫の古文書に称名寺造営の資材を運ぶ舟が八幡河岸に陸揚げされた記事があり、鎌倉期の存在が窺える。明治41年に近隣の小社を合祀。
安貞元年(1227年)阿波守長島維忠の発願により創建と伝わる野島町の総鎮守。倉稲魂命を祀り伏見稲荷の系統とされる。町屋神社が末社に稲荷社二社を有した点と、地域の稲荷信仰で通じる。
町屋神社は現在、富岡八幡宮の兼務社。柴熊野神社なども同宮の兼務下にあり、7月の神輿渡御と9月の湯立神楽という祭礼構成は金沢区内の複数社に共通してみられる。
嗣法山 伝心寺(曹洞宗):宝治元年(1247年)、鎌倉幕府執権・北条時頼を開基として創建。数度の火災で衰運したが、大永元年(1521年)に小田原北条氏の氏繁が養拙宗牧大和尚を招いて再興。本尊は釈迦如来、横浜金澤七福神・毘沙門天の札所でもある。町屋神社から徒歩数分の同じ町屋町内に位置する。
元和元年(1615年)は地元の「口碑」に基づく伝承であり、同時代の一次史料による裏付けは確認されていない。
江戸期の祭礼日(6月6日〜13日)と現在の夏季例大祭日(7月6日)が異なる経緯を示す史料は見つかっていない。
境内の由緒書きに再建の記述はあるが、具体的な年月や工事記録を示す公的資料は今回の調査範囲では未確認。
資料により「1868年」「1869年」の表記差がある(明治2年は西暦1869年、1868年は明治元年との混同の可能性)。